学校でも「歴史学」の視点を教えてほしいと思う3つの理由

こんにちは、消しゴム的存在です。

僕は、大学時代に「日本史学」という学問分野を専攻していました。

文字通り、日本の歴史について研究する学問でして、「歴史学」の分野のひとつです。

僕が大学で「歴史学」を学んだ経験から感じることは、「中学や高校でも「歴史学」の考え方を教えるべきではないか」ということです。

今日は、学校で「歴史学」の考え方を教えないことによるリスクと、「歴史学」の視点を持つことによるメリットを3つお伝えします。

目次

学校でも「歴史学」の視点を教えるべき理由

「歴史学」の考え方とは

「そもそも「歴史学」の考え方って何?」という方も多いと思います。

一線の研究者が書いている書籍から引用します。

歴史は科学である

私たちのような歴史研究者は、毎日の仕事でもあるので当たり前のように思っていても、どうも世間では理解されていないようなのが、「歴史は科学である」ということです。

歴史学を含め、人文科学は人間の行動や営みを研究テーマとすることが多いため、得てして情緒的な解釈や分析ばかりがなされているように思われているようです。しかし、歴史学においては、ごく単純な史実を求めるのにも、一つ一つ根拠を挙げ、一定の手続きに従った分析を行うことが求められています。

(中略)

つまり、歴史も「科学的思考」の積み重ねなのです。

科学などと言うと、身構えさせてしまうかもしれませんが、要するに論理的で理性的な思考と判断が歴史学においても重要だということです。とくに歴史学では、その科学的な根拠となる歴史資料、つまり「史料」がなんと言っても重んじられます。それも、単に史料があれば良いというのではなく、その信憑性、信頼性が常に問題になります。この史料の信憑性、信頼性を検討することを「史料批判」と言って、歴史学における基本中の基本作業です。

山本博文『歴史をつかむ技法』新潮新書、2013年、41~42ページより

ちょっと長い引用になってしまいましたが、歴史と付き合う上でいちばん大切な考え方がまとめられています。

つまり、歴史は「科学的思考」の積み重ねによって描かれるということです。

過去に起こったことと向き合うには、何かしらの手がかりが必要ですよね。

この手がかりが「史料」と呼ばれるわけですが、古ければ何でもOKというわけにはいきません。

古文書ひとつをとっても、文字が虫喰いで読めなかったり、間違った内容が書かれていたり、あえて嘘を書いていたり、後代に偽造されたものだったり・・・。

歴史の研究は、「この史料は、本当に手がかりにしていいものなのか?」という検討から始まるわけです。

上記の書籍に、歴史を描く過程が端的に示されているので、引用します。

歴史研究者は、基本的な手続きとして、ある歴史事象を描き出そうとするときには、関係する史料を探し出し、それを正当に読み解いて「解釈」し、さらに解釈の集積として、時代像や人物像を「イメージ」します。イメージとは、たとえばある時代を「こういう時代であった」とか、ある人物を「こういう人物であった」などと評価することです。

加えて、どの史料をもとに、どんな歴史を描いたか(=どんな学説を唱えたか)というプロセスを、第三者が検証できるように客観性を確保する必要もあります。

つまり、自分の主張だけでなく、根拠となる史料はコレで、この史料はココに所蔵されていて、コノ本に翻刻が載っています・・・、という情報も合わせて示さなければなりません。

さらに、史料が残っておらず、わからないものはわからない、としっかり示すことも重要です。

単純に考えて、ちゃんと思考の過程を示している説と、「根拠は示さないけど俺の言っていることは正しい!」と主張している説では、どちらを信用すべきなのかは明らかですよね。

学問的に見た歴史とは、こうした積み上げによって描かれているのです。

「歴史学」の視点を知らないことによるリスク

では、このような「歴史学」の視点を持たないまま大人になってしまうと、どんなリスクがあるでしょうか?

それは、「誰かが描いた歴史像を、そのまま無批判に盲信する大人になってしまう危険性」です。

(前略)

これらの教科書を読み、また大学受験前にその内容を必死で暗記した高校生が、「出エジプト」を史実と考えても不思議ではない。彼らは、「世界史教科書」=「史実を記したもの」=「過去に実際に起こったこと」と短絡的に考えてしまうかもしれないのである。

世界史教科書には、「世間一般」に「史実」とされていることが数多く載せられている。現代史における事件なら、教員自身、場合によっては高校生自身が人生の中で体験したことが記述されている。その場合、自分でそれが「史実」であるかどうかを判断することがある程度可能である。

九・一一の事件は記憶に新しい。個々人の記憶だけでなく、当時の映像、新聞記事当の記録も多数残っているし、それらへのアクセスも容易である。また本書が出版された時点では、この事件を実際に体験した人の数も少なくない。それゆえ、この出来事が「史実」ではなかった、と考える人々はほとんどいまい。このように広く一般に「史実」とされ、自身の体験にも裏打ちされていることが世界史教科書に記載されているなら、同じ教科書のそれ以外の部分にも「史実」、すなわち「過去に実際に起こったこと」が書かれている、とかんがえるのではないだろうか。

世界史教科書の裏表紙を開け、そこに記された執筆者陣の肩書を見ると、その多くは大学で歴史学を教えている教員であることがわかる。彼らは歴史のエキスパートであり、最新の研究成果にも通じていて、何が「史実」で何が「史実」でないかを決定できる「権威」と一般に目されている。加えて、我が国には教科書検定制度もある。もし「史実」以外のことが世界史教科書に記されているならば、検定に合格しないだろうという予想も働くかもしれない。

このような事情から、教科書に載せられた出来事は、そこに、「と考えられている」「と伝えられている」などといった言葉がなければ、(実際にはない場合が多い)、「史実」として専門家が確定したものと見えるのである

しかし、現実はそうではない。少なくともそうではない例が少なくないのである。(後略)

長谷川修一、小澤実編『歴史学者と読む高校教科書』2018年、勁草書房、3~4ページより

再び長めの引用になりましたが、つまり、歴史研究の過程を知らないと、「教科書に書いてあること=正しい」と思ってしまう大人になってしまうリスクがあるのです。

一般的に、いちばん身近な歴史像の例は、「社会科の教科書」だと思います。

小学校でも中学校でも高校でも、誰でも一度は手にしたことがあるはずです。

しかし、教科書は通説の集合体であるとはいえ、通説がいつも正しいとは限りません。

教科書ができあがるまでの過程で、歴史がどのように描かれるのかを知らないと、「教科書に書いてあるから正しい」という思考停止状態になり、そのまま無批判に盲信してしまう危険性があります。

描かれた歴史は常に第三者による再検証にさらされるわけですから、当然、変わる可能性はあります。

いままで見つかっていなかった史料が発見されれば、通説が変わらざるを得ない場合もありますし、むしろずっと変わらないのは不健全であるといえるかもしれません。

たしかに、歴史研究者以外の人が、いちいち再検証なんてできるとは思っていません。

しかし、ここまで述べてきたような視点を持っていないと、いわゆるトンデモ歴史本などに振り回されてしまうかもしれません。

こうした事態を避けるためにも、学校教育では、個別の史実を教えるだけでなく、「歴史学」の視点を教えるべきじゃないのかな?と考えています。

歴史学を学ぶ3つのメリット

さて、学校教育で「歴史学」について学ぶべきだと思う理由について述べてきましたが、実際に学んでみると、以下のようなメリットがあります。

「歴史」との付き合い方がわかる

1つ目は、「歴史との適度な付き合い方がわかる」ということです。

これは、上記のリスクの裏返しですね。

学問としての歴史の考え方を知らないと、本や教科書に書いてある「歴史像」を無批判に受け入れてしまう可能性があります。

逆に考え方を知っていれば、どんなに研究者が頑張って描いた歴史像でも、それが絶対に正しいなどという思い込みは起こらないはずです。

いちばん危険なのが、上記のような「歴史学」の姿勢を知らない人が歴史本を執筆し、それを読んだ「歴史学」の姿勢を知らない一般の人たちがその説を信じてしまう、という負のサイクルが発生することですね。

歴史学者の呉座勇一さんが指摘しているのは、まさにこの点だと思います。

大学で教えていると学生から「習ったことと違う」「なぜ高校で新しい知見を教えてくれないのか」という声が上がる。だが問題の根本はそこではない。「正解を知りたい」という気持ちこそが危険だと感じる。

(略)

歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。性急に答えを欲しがり、飛びつくのはポピュリズムだ。

日本経済新聞「令和の知をひらく(4)絶対の正解求める危うさ 歴史学者・呉座勇一氏」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44916500X10C19A5BC8000/

ぜひ、記事の全文を読んでみていただければと思います。

歴史に限らず言えることですが、歴史学の考え方を知ることが、「正解はない」というスタンスで歴史と付き合うことが最も重要ではないかと思います。

情報リテラシーを育むことができる

2つ目は、情報リテラシーを育むきっかけになるということです。

つまり、批判的に情報と向き合う姿勢を学ぶことができるということです。

上記でも書いたように、過去と向き合うには、史料という手がかりが必要です。

さらに、歴史を描く作業は、「この史料が本当に信用に足るものなのか」を検証する「史料批判」という過程が不可欠です。

たしかに、普通に暮らしていれば、自分で歴史を描く立場になることはなかなか無いでしょう。

しかし、歴史は、「史料批判を経て描かれているとはいえ、新史料の発見や解釈の見直しなどによって変わりうるものである」という認識をもつことは、無批判に歴史を受け入れることを防いでくれます。

学問的に歴史を考える姿勢がどんなものかということを知ることによって、歴史に直接関係のない情報源に接するときも、「これが絶対のものではない、批判的に読み取るべきだ」というスタンスをとれるようになります

世の中に情報があふれる時代だからこそ、一歩目線を引いて、冷静に情報に接することができる大人になりたいですね。

歴史資料が守られる

3つ目は、個人のメリットというよりは、社会全体のメリットですが、歴史資料の保護につながるという点です。

歴史学では、手がかりとなる「史料」が重要視されます。

この史料は、具体的には、古文書だったり、古い日記だったり、絵巻物だったり、というように、文化財や骨董品のような見た目であることが多いです。

現在でも、歴史のある寺院や旧家の蔵などから、未発見の史料が見つかることは意外とありますし、ニュースで報道されることもあります。

このあたりの事情は下記の本に詳しいです。

しかし、たとえばお坊さんや旧家に住んでいる人だからといって、必ずしも歴史学的な視点を持っているわけではありません。

描かれた歴史像を鵜呑みする程度の認識しかないと、描かれた歴史が何に基づいているかをわかりません。

すると、古い蔵から出てきた貴重な史料を、単なる古い紙の束として廃棄してしまうような悲劇が起こるわけです。

実際、世に出ないまま歴史の闇に消えていった史料は、山のように有ると思います。

学校で歴史学的な視点を教えることで、史料がいかに重要かという認識を広められれば、偶然にも自分の家から古い史料が出てきたなどという時に、専門家に相談せず捨ててしまうといったこと防げる可能性がありますよね。

史料は、持ち主の財産であると同時に、人類の共通した財産であるともいえますから、歴史学の視点を学校教育で教えることは、決して無駄では無いと思うのです。

まとめ:歴史学を学ぶと視野が広がります。

こうした「歴史学」を勉強したり教えたりするメリットがいくら大きくても、実際には学校で教えることは難しいということも感じています。

僕は教育委員会の事務局に勤めていたこともあるので、学校の教育現場で先生方がどれだけ苦労しているか、ということも多少は見てきました。

最近は、学校のブラック職場化について注目されることも増えて来ましたが、それでも授業以外にも先生方がやらなくてはならない仕事がたくさんあります。

そんななかで今以上に教えることが増えるとなると、単純に負担も増えますよね。

また、「歴史学」を専攻した先生はそもそも多くはないでしょうから、授業で教えられる先生がいないということもあると思います。

簡単には解決しない問題だと思いますが、学校教育で歴史学の考え方を学ぶメリットは必ずあると思うんですよね。

僕がブログでこんなことを書いても何も変わらないかもしれませんが、この記事を読んでくれた方の目にとまって、この考えに賛同してくれる人が増えることを願ってやみません。

[voice icon=”https://keshigomteki-blog.work/wp-content/uploads/2019/04/ac187f8554eb5ea799e9e73a626d14f6.jpg” name=”消しゴム的存在” type=”l”]最後まで読んでいただきありがとうございました![/voice]